世界に冠たる皇國、大日本帝國 Donners Hammer「今日の模様」

天皇弥栄、八紘一宇、祭政一致、必勝神風、神洲不滅、皇軍復活、核武装、暴支膺懲、二韓征伐、排他性一神教撲滅。

<沖縄航空特攻>陸軍キ-67三菱四式重爆「飛龍」自在丸中隊内藤廣司軍曹雷撃奮戦記~天一号作戦(航空総攻撃(陸軍)、菊水作戦(海軍))昭和20年4月6日→7月19日~

井上功一であります。
昨年(平成26年)末から、今年(平成27年)4月まで、
滝澤葉子さん支援を兼ね、
高槻市内で、

・支持者確保
及び、
・「支那による『南京大虐殺』、『強制連行従軍慰安婦の
ユネスコ記憶遺産登録』阻止署名」依頼
の為、

戸別訪問を実施しておりました。
署名は、計19万筆(内、井上分909筆)


その戸別訪問の中で、

昭和20年(1945年)4月6日~7月19日まで、

沖縄航空特攻である
天一号作戦
(航空総攻撃(陸軍)、菊水作戦(海軍))
に、

1トン魚雷を搭載した陸軍キ-67三菱重爆撃機「飛龍」
の操縦士として、
徳之島近海で、
敵輸送部隊雷撃に、
連日参加された

内藤廣司さんに、
(大正15年(1926年)2月20日生)

お会いしました。

中学卒業後、
幹部候補生として、
陸軍の飛行学校に入校。

雷撃により多大なる戦果を上げながらも、
敵戦闘機P-38(双胴の悪魔)の着陸間際の襲撃により、
中隊が壊滅し、
戦死者30名となる中、
胴体着陸で、難を逃れ、
生存者6名の内の一人となり、
生きて、大阪へ帰ってこられた方です。

89歳の今でも、視力2.0で、
腰も曲がらず、矍鑠とされております。

「戦友の名誉を護る署名の取り組み、
いたく感動した。
こんなん2つとも、嘘や。
斉州島にいっとったし、
支那にも、行き来しとった。」
「ワシは、曲がったことが、
大嫌いなんや。
日本の子供達が、
性奴隷を飼っていた様な
好色で下品な人間として
侮辱を受けるのは、かわいそうや。
女も買うたけど、
お金を請求し、石鹸や米までせびった。
性奴隷やったら、お金を取ったりせいへん。
そやから、
生き残ったワシが、本当のことを言う。
また、
自分のことなんて考えず、
常に死を実感して戦とった。
本当に毎日つらかった。
沖縄戦も、
爆撃機やから、後続距離長いから
帰還できた。
戦闘機やったら、戦死しとったと思う。
あんたとこやったら、
宮澤談話、河野談話、も破棄してくれ、

大東亜戦争は、正義の戦争。
日本を、譽ある國として再興してくれる。
思て、
資料渡したんや。」
とお話くださり、
他、
J7局地戦闘機「震電」の垂直尾翼に、車輪を
つけたのは、内藤さんの発案。
J7局地戦闘機震電を、ジェット戦闘機にする計画。

*日本では、
同盟國ドイツ第三帝國の
メッサーシュミット262の設計図
を元に、
終戦直前、
橘花というジェット戦闘機を、
生産しはじめており、
ジェットエンジンが完成しておりました。

と話が、盛り上がり、


当時の写真、手記を、
お預かりし、
公開することも、
了解してくださいました。

その内纏めようと思っておりましたが、
やっと、公開することができました。

1.天一号作戦
(1)帝國陸海軍作戦計画大綱
・マリアナ決戦、比島(フィリピン)決戦(捷号)の失敗により、
本土決戦が現実味を帯びる中、
昭和20年(1945年)1月19日に、
本土防衛の方針

「帝國陸海軍作戦計画大綱」

が、上奏裁可されました。


・昭和20年4月8日には、
「決号作戦準備要綱」が、示達され、
内地防衛軍を解隊。
第一総軍、第二総軍、航空総軍を、創設。
第一総軍は、東海以東。
第二総軍は、中部以西。
として、関東と九州を重視する防衛準備が、
命じられました。


・特攻作戦
航空特攻
陸軍:約2100機(別に500~1000機の増加を計画) 
海軍:約3700機(櫻花等を含む)

水上特攻
陸軍:特攻艇 約2000隻
海軍:震洋  約2900隻 

水中特攻
海軍:鮫竜74隻 海竜252隻 回天118隻

 

(2)天号航空作戦
・「帝國陸海軍作戦計画大綱」に基づき、
「東支那海二於ケル航空作戦」を、

「天号航空作戦」と呼称。

・昭和20年2月6日、参謀総長、軍令部総長は、
昭和20年度前半期において、
航空作戦、
特に、
東支那海周辺地域の航空作戦(天号航空作戦)
と、
特攻兵器活用の方針を示達。

・「天号航空作戦」は、敵の来攻地域により、
「天一号」から「天四号」の4作戦区に区分され、
「南西諸島から台湾」即ち沖縄に来攻に対処する場合が、
「天一号作戦」であります。

・戦艦大和が、海上特攻を実施した
昭和20年4月6日
「天一号作戦」が、
第1次航空総攻撃(陸軍)・菊水一号作戦(海軍)
としてされました。
以後、
6月23日、沖縄の第32軍が玉砕するまで、
11回の航空総攻撃、10回の菊水作戦を敢行。
陸軍約1000名、海軍約2000名が、特攻作戦で散華されました。

・1トン魚雷を搭載した陸軍キ-67三菱重爆撃機「飛龍」
も、徳之島近海で、敵輸送部隊雷撃で、参戦。

2.陸軍キ-67三菱四式重爆「飛龍」雷撃型の諸元
キ67
発動機:三菱ハ-109(離昇1,900馬力)×2
全幅:22.5m、全長18.7m、全高5.6m、全備重量:13,765kg、
最大速度:537km/h(高度6,090m)、
実用上昇限度:9,470m、航続距離2,800km、
武装20mm機関砲×1、12.7mm機関砲×4
800kgまたは、1,070kgの航空魚雷装備
タキ1Ⅱ洋上捜索用レーダー、タキ13電波高度計装備

重爆にも関わらず、急降下爆撃ができるくらい
運動性が良いば機体でした。


3.特攻、玉砕が、アメリカ軍に与えた精神的ダメージ
・昭和20年6月米国務省内の会議
「サイパン・硫黄島・比島・沖縄と、戦場が本土に近づくにつれ、日本の捨て身の抵抗が強くなるばかりで、特攻戦法が熾烈を極めている。」
と報告。

・原子爆弾と細菌兵器の製造計画に最初から関与していた
スチムソン陸軍長官の1945年7月2日大統領への覚書
「日本本土上陸作戦の準備は進行しているが、もし実行となると、日本は気狂いのように抵抗し、米軍の損害見込みは、死傷者あわせて百万人を越すだろう。この作戦をやらないですむに越したことはない。日本の天皇制を認めて、降伏を勧告すべきだ。」

・大統領付幕僚長レーヒ提督の言及
「日本を無条件降伏させなければ、こちらが負けというわけではない。無条件降伏以外の降伏でもいいではないか。無条件に固執して、われわれの戦死者を多くしても意味がない。」

4.内藤廣司軍曹のキ-67奮戦手記
(1)自在丸中隊、天一号作戦へ

 昭和19年11月、陸軍第四航空師団本部で、中隊の編成替えの話が出ている事を聞く。なんとなく不安。
 突然、中隊長:自在丸中佐の自室に呼び出され、「諸君には、未発表だけれど、今。福岡に建設中の飛行場が、二月に完成する。一月下旬に、一部の転属発表があるから、準備をしておく様。」と言い渡される。配置される飛行機は、キの六七重爆(三菱重工業製)の話が出て来たので、胸が躍る思い。
 昭和二十年。形だけの正月を済ませ、身の周りを整え、福岡に出発する。(山口県小月飛行場(現海上自衛隊小月航空基地)を、空からサヨウナラ。)
 出来たての飛行場は、枯れた背丈程も有る秋草が、ボウボウと茂っていた。ピストの前の広場には、着きたての「キの六七重爆撃機」が六機勢揃いをしている。明日からの実機の訓練に、武者震い。
 目前の敵、アメリカ軍には、電波探知機がある。探知を避ける爲には、波をプロペラで切るぐらいの超低空飛行しかない。目の前に広がる枯秋草を、波に見立て、プロペラで刈っている私の操縦技術を見ていた隊長。「俺。内藤の飛行機に乗るで。」と言って、訓練中の飛行機に乗り込んでくる。


(2)天一号作戦下達
四月。命令が下り、鹿屋、海軍第五航空艦隊司令部(司令長官:宇垣 纏海軍中将 )。任務は、徳之島周辺に集結しているアメリカ輸送船団に対して、魚雷攻撃をして全滅さすこと。
 かつての鹿屋航空隊は、一式陸攻の基地。魚雷を残し、海の藻屑と化していた。(一式陸攻は、海軍が誇る重爆撃機。山本五十六長官と、南の海で運命を共にした重爆撃機。)
 電探にも掛からず、超低空で飛んできて、魚雷攻撃して反転して帰る。自在丸隊には、アメリカ軍も手を焼いた事と思う。
 自在丸中隊:戦死30名。生存6名。


(3)神風特別攻撃隊追悼
 昭和十九年十月二十五日に、フィリピン・ルソン島のマパラカットの基地から、飛び立って征った敷島隊の五機。関行男海軍大尉に率いられて、華々しく戦果を上げた。
 特攻攻撃を考え出した大西瀧治郎海軍中将。日本の窮状を訴え、
『この危機を救いうるものは、諸君のごとき純真にして氣力に満ちた若い人々のみである。皆は、既に神である。』(神風特攻隊)
 六月二十六日。夏のギラギラと眩しい青空に、二百五十キロの爆弾を積み、只一機0戦を操縦して飛び立って征かれた特攻隊長。その時のお見送り、何日迄立っても忘れる事は無い。
 海軍の大西中将が、考え出した特攻攻撃。みずから「統率の外道」と称し、フィリピン戦だけの限定的な作戦にするつもりが、沖縄戦に入いると、陸海軍全機特攻化が正式決定し、神風特別攻撃隊と称し、『統率の王道』となってしまいました。
 『日の丸鉢巻締め直し、グット握った桿。』と歓呼の声に、送られた神風特攻隊。
 神に成り。一トン魚雷を積み込んだキの六七、四式重爆撃機飛龍を、操縦して、開聞岳、薩摩富士を、右手に、最敬礼をして飛び立った内藤軍曹に嘘は無い。


(4)敵戦闘機P-38の待伏せ襲撃、胴体着陸
 昭和二十年七月十日頃、空襲が激しくなり、一時的に避難していた済州島、大邱の両飛行場に着陸する予定が、燃料のガソリンが無くなり、やもうえず鹿屋基地(第五航空艦隊司令部)に着陸寸前、待ち伏せしていた航続距離の長い米國艦載機P-38に、後方より攻撃され、危機一髪、胴体着陸を敢行して助かるが、全機(六機)全滅。搭乗員も三十名戦死、生存六名だけ。生きていたのは、奇跡。九死に一生を得た。


(5)海軍局地戦闘機J7「震電」試験飛行に立会い

 撃墜される危機一髪、胴体着を敢行して脱出はしたけれど、全機炎上全滅、搭乗員もほとんど全滅に近い状態で、飛行機、搭乗員の補充の目処も立たない状況で、とりあえず粕谷基地(現福岡空港)の原隊(第四航空師団)に裸同然で帰ってきた。自在丸中隊の生き残り。
 只、モヤモヤとしている時、試験飛行中の局地戦闘機J7と出会う。嫌な沖縄戦。いくらか忘れられる。
 機体の後方に、六枚のプロペラ。空冷二連十八氣筒三千六百馬力のエンジンを搭載し、胴体の両面六ヶ所に空氣の取り入れ口を備えた局地戦闘機J7。
 飛行機も無いのに、飛行場に通っている内に、試験飛行中の「テストパイロット」の海軍大尉と親密な仲になり、機体の手入れや整備の手傳をしながら「メカニックス」等を話し合ったりして、鹿屋での嫌な思い出から開放され、とても楽しかった。
 離陸して急角度で上昇。高度一万米まで六分で到達する能力を持つ「J7」と云う。この飛行機は、是れ迄、色々な飛行機に携って来たなかで、今でも脳裏から離れることがない特に好きな飛行機です。過去に無いスマートな機体。バランスの良い操縦性。若しこの飛行機が、三年前に完成していたら(惨めな負け戦をしなくても良いのに)と。その当時は、思いました。七十年前の記憶を呼び戻して「J7」を描きました。


(6)焼け野原に咲く赤いガーベラの花
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 何も無い唯、暑い夏。昭和二十年八月。私の氣憶に間違がなければ。
 七月も終わりに近い二十六日頃、博多の町が空襲で焼け野原に成り、食べる物も無くなり、木造バラック建の三角兵舎の佗び住居。何かをしていないと、体も、心も、やり場の無い。どうにもならない時代。
 「J7」の試験飛行のある日だけが、私の唯一の生きがいの日々でした。
 飛行場から可成り離れた処に有る、飛行機を隠蔽して格納する掩堤まで、飛行機を誘導中、飛行場横の道路の突き当りの民家の庭先に、夏の日差を受けて、真っ赤に咲いているガーベラの花。
 その日は、やけにガーベラの赤い花が目に焼き付く・・・・・。
若し戦争が終わって、平和が戻って来たら、花を生けられる様な生活をしたいと・・・・・。
後に、ガーベラの花が導師になり、私をいけ花の道へ、誘導してくれました。


(7)終戦
 残暑の厳しい八月十五日。玉音放送で戦争が終わる。これで布団の中で寝れる。
 衛兵司令が、同期の井上軍曹だから、脱走を考える。とにかく布団の中で寝たい。
 消灯後、食料倉庫で、乾パン、牛缶詰、米を、荷造りして、同期三人で、脇に置いている荷車に積み、脱走する。
 博多駅に着くと、午前三時発東京行きの汽車が待機している。日通専用道から入り、無賃で乗り込む。発車。


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テーマ:沖縄問題 - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/12/03(木) 02:30:43|
  2. 祭政一致、國史、教育
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